江戸時代、かの良寛をして「この世に神がいるなど疑いたくなる」と言わしめた信濃川の水害の惨状。稲作に代わって和釘づくりで生計を立てようとする者、大河津分水の請願活動を繰り返す者、それぞれの立場や身分の中で水害を乗り越え、ここで生きてゆく道を選んだ。
1896年、越後平野史上最大最悪の水害「横田切れ」が発生した。長岡から新発田まで、見渡す限りの泥の海は1ヶ月も続いた。長善館で志を育んだ者は訴えた。「今こそ大河津分水をつくるとき」。
1907年、大河津分水の建設が始まった。しかし、日本一の水量を誇る信濃川をコントロールすることは簡単ではない。
日本では前例のない大工事。ドイツやフランスから資材や機械を輸入し、日本の最高の英知を結集し、一大国家プロジェクトとして進められた。工事従業者は延べ1000万人。その9割は燕や三条、長岡、新潟の人々であった。慣れない機械の操作、度重なる地すべりにツツガムシ病。80人を超える人々が命を落とした。
1922年、多くの犠牲を払い幾多の試練を乗り越え大河津分水は通水した。工事の最高責任者は祝辞で開口一番にこう言った。「もっとも感謝しているのは従業員の働きぶりである。一度も喧嘩や口論がなかった」。
越後の人々の200年にわたる悲願であった大河津分水の通水。毎年のように破堤していた信濃川が牙をむくことはなくなった。ある人は通水を祝い堤防に桜を植えた。ある人は偉業を讃え石碑を建てた。ある人は手記を、ある人は写真を遺した。
大河津分水は異国の偉い人がつくったわけではない。請願した者、工事で働いた者、その多くは我々の祖先であり、先人である。そして、大河津分水を伝えようとしたのもまた祖先であり、先人であった。
私たちに遺してくれた最高の贈りもの「大河津分水」。未来へ伝えてゆくのは、今、ここで生きている私たちではないだろうか。
燕市にゆかりの深い良寛さんは最晩年に、後世の私たちに「幸福論」を残している。それは、今に伝わる書、「良寛さんの愛語」と呼ばれているものであるが、「愛語」という、キーワードから、私たちに「みんなが幸せになれる方法」を諭している。
「愛語」は、相手をやさしく思いやる心、いのちを慈しむ心から発せられる言葉。「愛語」は、世の中や時代をいい方向に変えてしまう、とてつもない力を秘めている。「愛語」は、新しい愛語を呼び寄せ、さらに多くの愛語を増やしていく。「愛語」が増えると、思わず笑顔が浮かび、「ああ、生きててよかった……」
と幸せな気分になる。(「新井満著 良寛さんの愛語 自由訳」抜粋)
良寛さんが生きた、江戸時代末期は、政治の堕落腐敗時代で政情が不安定、また大河津分水が無かった時代だったので、2~3年に一回、大きな水害が起こり、そのため飢饉、米騒動、打ちこわしが起こるぐらい、農民の生活が困窮し、こどもたちにとっても今よりも不幸な時代だった。
しかし、そのような時代背景の中でも、良寛さんは、「愛語」の精神を生涯通じて実践し、苦しんでいる農民やこどもたちに対して、「笑顔」と「幸せな気分」を提供してきた。
良寛さんが残してくれた、「愛語」の実践やエピソード、和歌や漢詩、書に至るまで、現在でも多くの人々に多大な影響を与えている。特に、川端康成氏は、1968年、日本人初のノーベル文学を受賞した、授賞式のスピーチで、良寛さんの和歌を、全世界に向けて紹介し、良寛さんの人生観や生き方に、最も日本的な「ふるさと」を見出したと、称えてたのは、有名である。
これから、20年先、日本は、いまだ人類が経験したことのない、超高齢社会に突入し、乗り越えなければならない、問題や課題が出てくると思われるが、良寛さんの「愛語」の精神の実践、つまり、お互い助け合う「互助」の精神の実践が、それらの問題や課題を解決する一つのヒントになるのではないか。
先ほど紹介した「良寛さん」から「この子は将来きっと大成するだろう」と言われたのが長善館を開いた鈴木文臺先生。
長善館とは、江戸時代から明治時代に粟生津に実在した私塾で、「長善」とは、「長所を伸ばし、欠点を補う」ということを意味しており、その考えのもと、80年間で1,000人の子弟を教育し、その中には日本を変えた偉人たちも輩出している。
たとえば、長谷川泰さん。
東京医学校(東大医学部の前身)の校長を務めたのち、済生学舎(日本医科大学の前身)を創設した。みなさんの財布の中の千円札に描かれている野口英世氏もここの卒業生。さらに、国会議員として京都帝国大学の設立に尽力したり、衛生環境の整備の重要性を説き、「下水道法」を成立させたりと日本の発展に尽力した。
そして、その京都帝国大学で教授として漢文を教えたのが同じく塾生の「鈴木虎雄」。長善館の2代目館主の子であり、長善館で学んだのち、東京帝国大で漢学を学び、京都帝国大で漢学を教え、中国文学の第一人者として天皇へご進講を行ったり、文化勲章も受章している。
この他にも医学でいえば「竹山屯」、漢学でいえば「小柳司氣太」や「桂湖村」、大河津分水路の工事の実現に尽力した方々、国会議員などを輩出している。
では、なぜこんなに偉大な人が育ったのか、それはさきほどの「長善」の精神と、もうひとつ初代館長の鈴木文臺先生が大切にしていた教え「人のために役立つことをしなさい」にある。
燕市にはすごい長所を持った方がたくさんいる。それを文臺先生の教えのように人のためにもちより、協力しあながら新しいつばめの形をつくっていく。
そうやって「しあわせな人をふやすまち」をみんなでつくっていけたらいいなと思う。
180年前にできた「長善館」は、当時の若者に教えていたように、いまもこれからの未来を考える私たちにそんなことを教えてくれている気がする。
燕市は国内の金属洋食器(スプーン、フォーク、ナイフ類)総生産量95%を誇り、家庭用、業務用の厨房器具の国内有数の産地である。近年は中小企業の有する優れた金属加工技術も有名であると同時に、就業人口の7割が金属加工産業に従事するという特徴をもつ。
江戸時代以前の燕は信濃川、中ノ口川が幾度となく洪水をおこし、水害に悩まされ、稲作が難しい地域だった。そこで江戸時代初頭より困窮する農民の副業として和釘づくりが推奨され産業が興り、隣接する三条商人によって江戸にまで販路を拡大し、和釘の一大産地となったのだ。また近郊に銅山が開発され原材料が供給されると、江戸時代中期には、キセル、ヤスリ、鎚起銅器といった技術が江戸や会津より伝わり、さらに産業が活気づいていった。
1886年燕町諸職調査表 によると当時の燕町は総世帯数996に対し441世帯が金物産業に従事していた。しかし、江戸時代から明治時代に移り変った文明開化の影響が徐々に現れはじめ、この頃、家庭で使用される様々な生活用品が輸入品に置き換わり、それまで燕が生産していた金属製品が市場から締め出され、苦境に立たされることとなった。
そこに燕に新たな注文が東京から舞い込む。晩餐会に使用する金属製洋食器制作の依頼がなされたのだ。1911年のことだった。この注文を契機に、1914年には第一次世界大戦の影響で生活物資の不足するロシアから、スプーンを日産200ダースの依頼がなされたことが、決定打となり、多くの職人がスプーン製造に転業するきっかけとなったのだ。現代に続く大量生産と輸出産業の下地が確立された瞬間でもあった。その後も、第二次世界大戦、貿易摩擦など数々の時代の荒波を乗り越えながら、卓越した技術を基に、様々な素材を加工し、製品をつくり上げてきた。
燕は、いまや世界の金属加工産業の聖地になったのだ。
燕は工場の多い街であり、その工場で働く労働者も多い。その働き手の胃袋を支えていたのが、燕の中華そば=ラーメン。その成り立ちや、発展を紐とくと、金属産業と切っても切れない関係が見えてくる。
燕のラーメンの始まりは1932年(昭和7)に杭州飯店の先代徐昌星さんが来燕した頃にさかのぼる。当時は屋台の営業であることから火力が弱く麺が早く茹で上がるようにと極細麺が使用され。その麺に合うように、スープはあっさり醤油味であったといわれる。この頃、燕は好景気で、工場へ出前が多かったそう。その出前先で、労働者達より、腹持ちが良くなるように麺を太くして欲しいということと、肉体労働で汗をかくから塩分補給の為にスープをしょっぱくしてくれという要望がなされた。ここに、太い麺と濃いスープの相性を良くするために、細かくした豚の背脂を加えることを発案。まろやかさが増して、スープが冷めにくいという効果も生み出した。その後、後を継いだ息子さんが、味をさらに磨き、煮干しの出汁がガツンと効いた濃い口醤油に、加水率が高く、モチモチとした食感のうどんを彷彿させる太麺、新潟の雪原を思わせる豚の背脂が加わり今の燕のラーメンが完成。その頃、高度経済成長期の迎えた燕の工場はさらに活況を呈し、同じスタイルのラーメンを提供する店が増え始めた。工場では残業が多く、夜食に出前をとって、みんなで食べることが楽しみの一つであり、家族経営が多かったことから、奥さんも工場で油まみれになり、晩ご飯をつくれず、代わりに出前をとって家族で食べるということが、いつもの風景になっていったのだ。当時は繁盛店で出前が一晩800杯を超えるくらいだったというから、いかに働く人々に愛されてきたかかが伺い知れる。
食の部分で、労働者の胃袋を支えると同時に、燕の金属産業を支えてきた、燕のラーメン。まさに産業から産声をあげ、産業とともに歩んできたラーメンなのだ。
ご当地ラーメンというジャンルを超え、完全無欠のソウルフードとして、今なお、幅広い年齢層に愛されている。まさに、燕を代表する食文化であり、産業文化なのだ。