活動報告

つばめの学校 第15回ワーク 11.1 感想レポート

2018.02.28  by

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講師:荒井直美さん
1971年東京生まれ。東京大学文学部美学芸術学専修課程卒、同大学院修士課程修了。学生時代よりボランティアでアートマネジメントに関する活動を行う。1997年より新潟市新津美術館に勤務、2013年4月より現職。「ニイガタ・クリエーション 美術館は生きている」展(2014年)、「アナタにツナガル」展(2016年)などを担当。さまざまな形でアートと人びとを結びつけるプロジェクトに感心を持っている。

 

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気鋭のキュレーター荒井直美さんは切れ者である一方でとても温かい方、特に弱い人に対する配慮や心遣いが素晴らしくそのルーツはどこから来たのかと以前から思っていました。エピソード1から5まで、少女のころ転校を繰り返したこと、高校時代の美術教師との決定的な出会い、地方美術館への就職、ガラス工場の職人さんたちとの協働から最近の企画展「アナタニツナガル」までの取り組みを聞いておぼろげながら納得。涼しい顔で語るその陰には役所ならではの保守的な壁や葛藤など大変なことも多かったと拝察、荒井ファンの多さにも感服しました。哲学対話では「なぜ美術館は必要なのか」という根源的な問いに会場が盛り上がり最後にサプライズでツバメコーヒー開店5周年のケーキ登場。びっくりした田中オーナーの嬉しそうな笑顔が印象的、とても刺激的で温かい夜でした。
(渡辺スクールコーディネーター 渡辺斉)

 

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始業式から数えて4回目となる哲学対話のセッション。今回の〈問い出し〉ではこんな問いが挙がった。「なぜ目に見えないものを表現するのか?」「アートは自然を越えることができるのか?」「学校の美術と芸術はどう違う?」「なぜ美術館が必要なのか?」――。哲学対話の要は問いを立てることにある。日々氾濫する情報や知識に足を取られ、学校や職場など社会において通用する既存の価値観やルールに時として思考を奪われそうになりながらも、私たちは自ら問いを立て、引き受け、語り出すことによって、確かな何かを新たに見定め生み出してゆく自由な主体になりうる。それを誰かと共有することができれば、共同体という名の主体が生まれる。問う力は主体的に生き抜く力であると改めて思う。振り返れば、つばめの学校で私たちが問いたい/問うべき問いのコレクションが出来つつある。
(新潟大学人文学部准教授 阿部ふく子)

 

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荒井さんが新潟の美術館という場において積み上げてきた成果の映し鏡のようにたくさんの人を来てくれたことが印象的だった。
図書館や(公立の)美術館を考えると、いつも公共性とは何か?に辿り着いてしまう。
それは、経済合理性の観点からなかなか民間で提供できないが、パブリックとして市民に提供していきたいもの(いくべきもの)であるはずだ。
とはいうものの行政は、最大公約数的な不満を除去することは得意だが(ほとんどそれしかできないが)ぼくらをワクワクさせることはほとんどないし(公共性を持ち出して、あるいは個別の趣味としてそこから逃げることしかしない)文化資本を知のインフラとして再設定した上で、図書館や美術館について構想できる知的な首長はぼくにはまったく見えてこない。(ぼくの視力の問題もあるかもしれないけど)
そんな向かい風のなかで、新潟という場において荒井さんが走り続けたことを見ていた人が今日集ったのだ、とぼくは理解した。見ている人はいる。常にそこからはじめていくほかない。おそらく絶望と希望は隣り合ってる。
毎回参加して下さる方が、「今日は何だか多いね〜。」と、中を覗いておっしゃった様子を見て、各回を見守ってきてくださる常連さん的存在がとってもうれしかった。
(ツバメコーヒー店主 田中辰幸)

 

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前回の感想レポートで、わたしは「読書によって得た知識をどう扱って良いのかわからない」と書かせてもらった。しかし、知識と思っていたそれは、ただ1つの情報にすぎないという事がわかった。それをそう思わせたのは、今回のゲスト荒井さんの美術講座に参加した事だった。1つの事象に対して沢山の情報を収集し、多角的に観る、考える。そうして自分に宿るものを知識と呼ぶような気がした。本一冊読んで得た情報を知識だと思っていたなんて、改めて自分の稚拙を認識し、自分の分際を知った。
(つばめの学校 深海)